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つじつまが合わないと感じたとき

[2016.03.01]

人間関係でのギクシャクの元は言うまでもなく行動と会話ですが、より反応的なものは会話由来のものでしょう。例えば、「あの人失礼ね」という言い回しをする人がいますが、考えてみれば失礼と感じる由来は、感じた側の事情です。よって感じた側のいきさつを追っかけていって始めて、この人が失礼と感じた理由がわかってきます。

言い換えれば、ほとんどの失礼は行った側の事情ではないということです。アメリカのように多民族国家であれば、文化背景が違いますから、失礼と直感的に感じる度合いは多くはないでしょう。しかし日本は単一民族で「礼儀は共通なもの」としてある意味常識化されてしまっているため、感じる側が「待てよ?この人のこの言葉はどういう意味かな」と一歩引くことができにくくなっているかもしれません。

とはいえ、「失礼ね」という直感的に思い、相手とのぎくしゃく感をひきおこす、あるいは「ムッ」として拗ねてしまって会話をしなくなったという場面があれば、これは間違いなく失礼と感じた側の事情です。よって、「失礼ね」と言われたときは、もしわざとやっているのではなければ、たじろいだり恐縮したりする必要はありません。

では、失礼と感じやすい人はどのような人でしょうか。一番近いところでいえば、「我慢してきた人」です。つまり自分もそのようなことをしてみたり、言ってみたりしたいのだが、親など強者からの外力がかかって、行うことができなかったという過去に由来します。もちろんこの「できなかった」ことに対して、当時者が納得した思い出として捉えられていれば引っかかることはないのですが、大抵は前述の人たちの強力な力で「ダメ」とさせられてきた歴史があるものです。

よって、このような「我慢させられてきた人」は、目の前で自分ができなかったことを「しゃあしゃあと何の気がねもなく言ったりしたりする人」に対して、敏感に反応するのです。つまり「失礼!!」と騒ぐのは、嫉妬なのです。

このようなわかりやすい例でなくとも、目の前の人との会話で「どうもつじつまが合わない」と感じることは日常的に少なからずあるでしょう。このようなときに腹を立てたりムキになったりしては埒があきません。却って何も光が見えてこなくなります。他人同士の痴話話の中でならそれも構いませんが、家族を含め重要他者同志であれば、それこそあとを引くことになるでしょう。得てして「話がかみ合わない」と感じたときには、少しこころに間を置いて、相手側の事情つまり「相手のこだわり」を覗いてみる工夫をしてみましょう。そうすると目の前の相手は一人ですが、「だいぶ浸食されているな」と感じることができると思います。

このとき相手を浸食している人とは、大抵は「同性の親」です。しかしぎくしゃくが起こっているその会話の中に親が出てくることはありませんので、さも自分に対して怒っているように見えます。しかしそこにはもう一人の支配者がいるのです。同性の親の影響に強く縛られ、自分を解放できないまま大人になっている人は、自分の言動を査定されているのではないかといつも怯えているため、防衛本能が働いてムキにならざるを得なくなります。このように日頃の会話の中で、「そこにいない第三者の力」は、時に無視することはできなくなります。

ちなみに、親離れはもちろん親からするものです。子ども側からするものではありません。強大な力をもつ親側の勇気が、子どもを巣立たせるのは人間も動物も変わりありません。

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