こころ、こんにちは。

共依存について

共依存とは

共依存 (co-dependence) とはコミュニケーション依存の一つの形として捉えられるものです。
元来はアルコール依存症の夫を支える妻を例として名付けられたものです。妻はアルコール依存症の夫に日々悩んでいるのにもかかわらず、その夫が例えば飲酒により放尿したときには黙って処理をする、あるいは夫が酔って警察官に家まで送ってきてもらったときに警察官に謝りながらも夫は温かい布団に寝せてあげるなど、アルコール依存である夫の家庭や社会における酒のしくじりに対し後始末や尻拭いをする妻を指す言葉です。

共依存の状態

しかしどうして「共依存」という言葉がついたのでしょうか。上記のような例の場合、アルコール依存症の夫が「酒を飲むか飲まないか」に捉われている傍らで、妻も同時に「夫の酒」に関わるあらゆることに対して頭が一杯になっています。つまり、アルコール依存症の夫を傍らに抱える妻は知らず知らずのうちに夫の行動の一つ一つが気になり、結果夫そのものに振り回されて疲れた日常生活を送るようになります。

「共依存」といわれるわけ

この妻の動きがなぜ「依存」というカテゴリーに含まれるのでしょうか。ひとつは、上述のように夫というひとつのことで頭が一杯になり、他のことが手につかなくなることです。これは依存の「強迫性」の部分に当たります。
もう一つは、依存の原点である「やめたくてもやめられない」にあたるからです。これは依存の「反復性」の性質です。つまり、妻は自身の行動が夫の飲酒行動の低下に影響を与えるものではないことを読めてきて、こんな尻拭いや後始末の類のことは嫌なのに、いっこうにやめられないところを指してこのように言います。
依存のもう一つのポイントは「衝動性」ですが、夫の酒でのしくじりをみると半ば自動的に反応してしまっている様子をさします。「この時はこうする、別の時はこうする」など考える暇がなく、半ば自動的にその場をおさめる方向に妻は動いています。
この三点から、依存の要件にも十分あてはまるとみなされるようになりました。

共依存がなぜ問題になるのか?

たとえ依存に該当しても、それだけでは必ずしも問題視する必要はありません。なぜなら本人が困ってなければ、指摘の対象にならないからです。それではなぜこの一見献身的な妻が、一転して問題として扱われてしまうのでしょうか。
日本ではこのような妻は「けなげな妻」としてむしろ評価されました。世界的にも多かれ少なかれ同じ傾向でした。しかしアルコール依存症の夫を一見支え、夫が飲酒しないように傍らで常に監視しているような妻が、実は結果的にむしろ夫が飲酒する方向に向かわせてしまっていると指摘されるようになりました。
なぜなら、妻にいろいろと尻拭いをさせてしまった夫は、飲酒との絡みは別として「妻に迷惑をかけてしまった」と、こころのどこかで引け目を感じています。これは本当です。「引け目が蓄積されてがんじがらめになり、一瞬で解き放たれたい欲求に駆られて起こす行動」がいわゆる依存症あるいは依存対象物に対するこころの動きなのですから…。夫は口にはとても出せませんが、こころの底では自分をコントロールできず周囲に心配や迷惑をかけていることをわかっています。だから飲みつづけるのです。
この場合、妻の献身的な動きと「なかったこと」にして夫に罪を償わせない姿が、むしろ夫が大きく引け目を「引きずる」向きに促してしまいます。そして、「引け目を引きずらないために飲む」というこころの流れで依存症が繰り返されることになるのです。

依存とは、コミュニケーションの病とも言える

このように依存は、ある意味ボタンのかけ違いです。アルコール依存症であれば飲んでいる本人も傍らにいる妻もそんなつもりでやっているわけではないのに、いつのまにか不本意な方向に行ってしまう。依存症本人とその周囲の家族は、手数が少ない中でこのようにいつのまにかお互いに「巻き込まれて」しまっているのです。
特にこの「共依存」は、一見好意的な社会の評価もあってか、この妻は自分の行動自体に歯止めをかかる確固とした機会がないことが少なくありません。このような拙い状態から脱するには、新しいレシピを身に着けていくことが肝要です。

「治す」のではなく「創る」

コミュニケーションの悩みは、「いままで考えてきた、あるいは使ってきたやり方では、いまこの現状を乗り越えられない」ということではないでしょうか。いわば人間関係に手詰まりな状態です。そのような意味でコミュニケーションにまつわる疾患は、「治す」つまり「元に戻す」のではなく、「いままでとは違う私を、新たに創っていく」ことになります。そして新たに私になるのにつれて、症状はすっと消えていくようになります。