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「なぜそうならざるを得ないのか」を見つめる

通常心療内科や精神科といったメンタルクリニックといわれるものは、何らかの「こころ」に関する症状に出て初めて患者さんが来られます。

この「こころ」の「症状」を精神症状といいます。これには、うつうつした気分や落ち込み(抑うつ気分)、やる気が出ない(意欲低下)といった一般的にうつ病・うつ状態と言われる病気の代表的な症状のほか、眠れない(不眠)、不安、イライラ、焦り(焦燥感)、人が怖い(対人恐怖)といったものがあります。中には、疲労感や痛みなど身体の症状として現れるものもあります。

この精神症状はわかりやすいものですが、もうひとつ扱うものに「衝動」があります。これには例えば様々な依存症と言われるものがあります。アルコール依存、薬物依存といわれるような代表的なもののほかに、ギャンブル依存、近頃はゲーム依存、ネット依存といわれるものもあります。摂食障害といわれるものも別名食べ物依存ですので依存症に含まれます。また依存症とは名前はついてはおりませんが様々な社会問題の中にも衝動に基づくものが多くあります。パワハラやモラハラ・セクハラなどの各種ハラスメント、家庭内暴力(DV)、児童虐待、ストーキングなどがあります。これらいずれも「衝動」に基づくものは、反復性・執着性・強迫性を伴います。よって「いつまでも手を洗い続けないといられない」(洗浄強迫)、「鍵を閉めたかどうか、火を消したかどうか何回も確かめないと気が済まない」(確認強迫)など強迫性障害といわれるものも、この衝動コントロールがうまくいかない障害です。この衝動コントロールができないのは、本人が想像する最悪の状態を回避するために、いま本人にある少ない手数の中から使っているものです。はたから見れば「のめりこんでいる」ように見えますが、本人は最悪の回避のために行っていることが多いのです。よってこの「衝動」から来る悩みは、依存症の対象となっているものをただで取り上げることはできません。本意ではないけれども、まがいなりにも数少ない手を使って最悪を回避しているからです。よって症状や衝動は、自信や自己肯定感との「交換」になることがほとんどです。

こころの不具合は例えば家にある電気のブレーカーのようなものです。さらに不具合が起こらないように気付かせてくれるものが、巷に起こりうる「精神症状」です。

つまりブレーカーが落ちるということは、負荷がこれ以上漏電などの危険性があるから、ブレーカーが落ちて家全体を守るわけです。このことに例えられる代表的な疾患がうつ病です。

クルマでも不具合が起こったら不具合のところだけを直しても対症療法にすぎません。よって全体を点検します。これが必要であることと同じように、家のブレーカーが落ちるぐらいの症状を引き起こしたら、どのような負荷からもちらされたものかを見つめることが再発を防ぐことにつながっていきます。

その不具合の主なものは、その方の生き様に由来します。つまりいまと昔、生い立ちと現在の環境です。
なぜなら症状はいわばアレルギーです。症状でなくとも人のものの考え方というのがアレルギー反応です。アレルギーとは花粉症に代表されるようなものですが、一回目の花粉の侵入はなんら症状として表に現れていません。ただ初めての花粉の侵入は強烈な拒絶反応を実は示しており、身体の中で防御するものが大量に生産されます。アレルギーではこれを抗体といいます。そしてこの過剰な抗体生産能力が知らず知らずのうちにできている中で二回目の侵入をきたすと、今度は過剰な拒絶として認識し、鼻水や涙などの症状をきたし症状を起こしている本人に不具合として認識されます。

こころの症状もこのような過剰反応の表に現れてきたようなものです。
科学ではよくこれ以上のラインを超えると表に現れるラインのことを「閾値」といいますが、こころもこの閾値まではなにも症状をあらわしません。しかしいったんこのラインを超えると症状として現れてきます。ちょうどコップの水があふれるような感覚で、こころにも閾値というものがありますが、アレルギー反応の時はコップにたまってくる水の量が極端になってきます。

このアレルギー反応が、その方の生い立ちの中で我慢してきた感情、釈然としないまま受け入れてしまった事実の裏返しとして、二回目以降になると段々と過剰反応として現れてくるのです。「何もなかったかのようにふるまったこと」「納得していない中で受け入れたこと」などが、後々になって不具合として出てくるのです。

ですから、こころのやまいとは、いまその症状を引き起こすきっかけとなった事柄にのみ目を向けるのではなく、それ以前にその方にいつのまにか蓄積され、かつ気付かないふりをしてきたている鬱憤や怒りを見つめなおすことが、こころのやまいが再びおこることを防ぐことにつながっていくと考えています。

こころは直すのではありません。創っていくものです。小さな子どもの段階は、受けとる考え方や感情が少ないため、極端なやり方しかできません。これを大人から見ると激しい表現に映るわけですが、これは得てして子どもは周囲環境が狭く、親など非常に特定の人物とのやり取りが相対的に多い結果、全体として体験が少ないわけで、これにより考え方や感情の数が少なくならざるを得ないことにほかなりません。よっておとなになるということはこの考え方や感情の数が増え、その結果一つの考えや感情に対して感度が必ずしも敏感ではなくなってくることにつながります。これはちょうど料理のレシピの増えていくということと似ています。レシピが多くたくさんの料理を作れる体験があるならば、世の中とのやり取りやストレスに対してその時その時に応じて違ったレシピが作れます。しかしレシピが少なければそうはいきません。かといってレシピが少なくても食べないわけにはいきませんので、食べたくないものでも作るしかありません。食べたくないのを作るわけですから疲れるし、食べたくもないものを食べなくてはならないのですから納得もいかないし、またそれしか作れない自分に罪悪感が生まれてきたりします。心のレシピが少ないと毎回やってくる世の中のストレスに対して、釈然としなくても同じ考え方や感情を持つしかありません。ちなみにこれがアルコール依存症などに代表される、依存症といわれる疾患群の心の動きです。しかし人とのやり取りが増えて体験が増えてレシピが増えてくれば、同じような考え方を毎回しなくて済みます。そのようにして、生い立ちから受け取った考え方を薄めていくことで、考え方が拡がっていき、さらには症状を呈する閾値を超えにくくなっていくでしょう。

よって症状はまさに氷山の上の部分です。氷山が出てきたところでその上の部分を削っても、底にあるものを見つめていかなければまた氷山は海の上に姿を現してきます。それではまさにいたちごっこなので、この場合も氷山の下の部分つまり生い立ちと、氷山を作るほどの気温の低い環境はどのようなものかの二つの側面を同時に見つめていくことが肝要です。

症状はこころの不具合、とりわけ鬱憤や怒りの表れです。これまでの自分を見つめるうえで大切な要素です。この症状がきっかけでも、私をいま取り巻く環境とこれまで取り巻いてきた環境、いわばその方の全体を見つめていけば、むしろ症状の出現が新たな自分を発見するきっかけとなっていただきたいと思います。さらには症状になる前に鬱憤、怒りの段階で点検を行えば、新たな私をより創りやすいと思います。

こころの症状は「もうこれ以上こころに負担をかけないでください」という警報シグナルです。症状の兆しがある方、症状が出てない人も、悩みという段階で相談してください。

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