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COLUMN院長コラム

トラウマは気難しさにつながる

2019.06.07

複雑性トラウマは「奪われた体験」と「得られなかった体験」に分ける。

精神的なトラウマは、自然災害や事故などで生じる「単純性トラウマ」と、不具合な環境が長引いて生じる「複雑性トラウマ」に分けられます。私どもが扱うのは主に後者ですが、この複雑性トラウマは、さらに性的虐待や暴力などにより元来持っているものを奪われた体験と、差別や無視により本来その人に与えられてしかるべきものを得られなかった体験に分けられます。

このうち前者の「奪われた体験」は、あったものがなくなってしまったという構図ですから、当事者も比較ができるため焦点を定めやすく、よってその体験の感情は怒りという形でこれまたわかりやすくあらわされます。よって、この種の怒りはそれほどバラエティが少なく、表現も単純です。

対して、今日のタイトルに示す「気難しい私」は、後者の「得られなかった体験」によるものです。本人も怒りなどの自覚を感じにくいことによるものです。

「得られなかった体験」は、過剰な「平等欲求」と「賞賛欲求」をもたらす。

集団から無視や暴言、あるいは母親が姉妹の一方を可愛がって育てるなど、いわゆる他者との差別に伴う「本来与えられるものが得られなかった体験」は、当事者は怒りの焦点を定めることが出来にくい状況にあります。よってこの体験の当事者は、トラウマ処理によく起こる「心の内で飲み込んで、なかったことにする」という「我慢」を強いられます。その我慢の継続が、後々になって自分が我慢してきた体験を肯定するために、周囲に対して極端な平等意識を持つようになります。

あの時自分だけが差別されたこと、そしてそれを我慢してきた私は正しかったのだと強く思いたいからです。

しかしもう一方で、あの時得たかったのに得られなかったものに敏感に反応します。それはトラウマとは関係のない人たちから言われた「ありがとう」に対する感動です。社会に出て役に立った時や、恋人などに言われることもあるでしょう。それまで言われ慣れていないため、鋭く心に響き、もっともっと欲しくなります。これがここで示す過剰な賞賛欲求です。

「気難しい人」になる流れ

ところがこの「平等欲求」と「賞賛欲求」は、同時に満たし続けることはできません。平等であれば、自分だけが賞賛されることはできないし、自分が賞賛されようとすれば、これはそれ自体が特別意識を望んでいるのですから、平等意識を保持することはできません。

よって、この二つの側面を両方同程度に保とうとすると、「自分だけは構わない」という圧力を周囲にかけることになります。当然これは、周囲からは無理強いと映ってしまいます。

このように「気難しい人」というのは、無視や差別など理不尽な「得られなかった体験」の蓄積により、怒りの矛先を合わせられない人に生じる立ち居振る舞いです。