こころ、こんにちは。

COLUMN院長コラム

依存症治療の曲がり角 : 社会恐怖と摂食障害

2018.10.02

噴火の下にはマグマがある。

以前にも述べましたが、精神科や心療内科は「症状」と同様に「衝動」も扱います。症状が火山の噴火だとすると、衝動はマグマの部分にあたります。噴火つまり症状の出方はその時の事情や巡りあわせによって変わりますが、たとえ症状は異なってもマグマである「衝動」は同じところにあることが多いものです。
その代表的なのが人間関係です。確かにその人がいま面している人間関係もトリガーとして無視はできませんが、それ以上に重要なのは過去の人間関係から煽られた過程です。ななぜなら「また同じことになっている」と思うと、人はアレルギー反応を起こすがごとく不安や恐怖を感じてすくんでしまいます。この不安や恐怖が「衝動」を駆り立てる源泉となります。
このような伏線に伴うのが様々な依存という衝動行為です。衝動 ”行為”となると形があるものですので、初めて噴火という形の症状という扱いになるのです。

鉄則だった「まず、やめる」ことからの変化

この噴火なる症状化に対して、以前はまず「徹底的に収める」ということに評価を置いていました。アルコールや薬物、ギャンブルや万引き、はたまた暴力や様々なハラスメントでも同じ目標でした。衝動行為の裏に混沌としたストレスの泉が存在することはわかっていても、「まずは、やめる」ということが目標となり、かつこれが「誉れ」であったのです。特にアルコール依存症の自助グループなどは、いまでもこの「やめつづける」ということが大きなミッションとして神格化されているかもしれません。
しかしこの「まず、やめる」ということが、依存症という分野が多岐に渡るようになって様相が変わってきました。その分岐点が、「社会恐怖」と「摂食障害」が依存症のひとつの形として含まれるようになってからです。

「やめる」ことから「ほどほど」を目指す転換

社会恐怖の様態であるいわゆる「ひきこもり」と、摂食障害の主要な形である「食べ吐き」は、どちらも「まったくやらない」ことを目標にできません。よって従来の依存症の教科書的治療目標にそぐわないものとなりました。そもそも依存症の一環として社会恐怖や摂食障害が迎えられるようになった経緯は、価値観の違いを相互尊重出来ないゆえの「見栄・意地・面子」などの人間関係です。これは簡単に述べれば「しがらみ」への捉われです。同じ依存症の体をなしているのに、これら二つの疾患はやめることを目指せない形態のため、依存症の治療はこれを機に症状を「止める」ことが必ずしも優先ではなく、「ほどほど」を目指すという流れに転換していくことになります。

「ほどほど」を目指すために、改めてマグマを見据える

社会恐怖や摂食障害が依存症に含まれるようになり、いま依存症はその本質である「こころのマグマ」に迫れるかが問われるようになっています。最近流行のゲーム・ネット依存は、逆に最初から「ほどほど」を目指す治療目標になっています。これは依存症治療の流れを考えてみれば、画期的なことです。なぜならネットやゲームは引きこもりや食べ吐きと違い、「やめることを目指せないわけではない」のにもかかわらず、「やめることは目指さない」からです。「ネットやゲームはやめられるものだから、やめましょう」とは、言わないようになっているのです。
このような依存症治療の変遷の中で、症状という形のあるものから、衝動という形のないものに焦点化するようになっています。これからの依存症治療は、心の奥底に潜む「しがらみ」を解きほぐすことにかかってきています。