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COLUMN院長コラム

共依存・底付き体験という言葉からの脱却

2018.06.11

「共依存」に秘められた想い

いまとなってはあまり前面に出なくなった「共依存」という言葉ですが、こと流行らなくなってきたからこそ、ここでまた考えてみたいと思います。
ちなみに私が「共依存」という言葉を教わったときには、古典的にアルコール依存症の治療の中で用いられていました。「家族が本人に酒を飲ませないようにしていること自体が、結果として本人の飲酒を促進させてしまうことにつながる」というものです。そこには、妻はアルコール依存症である夫の「尻拭い」をしているなどとして習ってきました。
そしてその「共依存」から脱却する方法と言われたのが、これも言わずと知れた「底付き体験」です。つまり「家族がいろいろと本人に尻拭いしてしまえば、結果的に本人にまた飲ませてしまうことにつながるのだから、何もしないで(例えば身体の具合が悪くなるのを)体験させれば、自分から病院など治療に向かうことにつながるはずだ」という流れです。
これは大変当時アルコール業界の中で流行ったと思います。しかし新人だったから尚更なのでしょう、当時からこの「底付き体験」という言葉に違和感を感じていました。研修医時代という新鮮な頭の中で多くのアルコール依存症者を体験する機会に触れた中で、アルコール依存症の治療のどの段階においても、「気難しくない人」は、ほとんどいなかったと感じていたと思います。

「断酒が唯一の正義」という苦悩と脱却

当時アルコール依存症の治療が有効とみられる確率は対象者の20%以下と言われていました。つまり「俺はまだアル中ではない」といった「否認」を初めとして、むしろ治療者側がアルコール依存症の強烈な治療拒否との間に苛まれていたと思います。この時代に上述の「共依存」・「底つき体験」・「否認」という言葉は、アルコール依存症者や家族へ向けてというよりも、むしろ治療者側へ受けいれられたのかと思います。これらの言葉は、治療者側の無力感に対する「救いの言葉」として当時から拡がっていったのではないかと思います。
さて近年これらの言葉自体は廃れてきましたが、現在われわれ依存症の業界では「CRAFT」や「ハームリダクション」など、それまでの絶対的な言い切り用語から変化する言葉が生まれてきました。(用語の詳細は良書を参照ください)。これらはいずれも海外由来の発想ではありますが、古来のサムライ的な「決めうちを良とする」といういかにも日本的な発想から、少しずつ脱却・変化しているように感じます。これは私たち治療者側にもある意味治療者としての「見栄」が少なくなってきたのかもしれません。

医学・心理学モデルからの脱却

少々話は展開しますが、ノーベル経済学受賞者が出たことをきっかけに、最近は行動経済学という学問が注目を浴びています。簡単に言えば「人は理論どおりには動かない。無意識に矛盾した行動をとってしまう」ことを経済面から立証していく学問です。経済学というだけあって、現在はまだ立証の媒体はお金や株など誰しもが「損得」を共通に感じとれる媒体を使うことが多いですが、やがてこのような考え方が我々の治療にも活かされる時代が来ると思います。
「共依存」や「底つき体験」という言葉も、行動経済学的にいえば「後知恵バイアス」を含んでいるかもしれません。そしてこのような思考バイアスは、「私たちのしていること、あるいはしてきたことは間違っていない」と思いたい欲求(罪悪感昇華欲求)から来ています。ちなみに私も今まで様々な疑問を業界の先人に投げかけましたが、「答えになっていない」と感じざるを得ないことが多々ありました。そのような中で、依存症を我々が専門である医学的な視点だけで測るのは「現在志向バイアス」であり、ある意味「サンクコスト理論」に該当します。これらの言葉は、「今までが無駄だったと思いたくない」という心理から来るものです。しかし次第にこれらの「意地」は通用しないことが、世の中に広がって来るでしょう。
現在開業医となり、自分があの時代に純粋に疑問に思い質問してきたことを、今度は患者さんからストレートに訊かれるようになりました。その都度「その質問は当然だよね」と思いつつ、曖昧な返答に終始することはしなくて済むようになっています。しかし一方で何かとセンセーショナルな言葉が踊っていたあの時代、前述した治療確率20%に達するどうかというアルコール依存症治療に携わってきた側の苦悩は、いかばかりだったかと推察するのです。