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人間関係はアレルギー (3) : ならぬことはならぬ?

[2015.11.25]

前回は「人を屈服させて動かすということはできない」と述べました。しかしこれには反論があるかもしれません。例えば、親子関係では「しつけ」と称して「言いきかせる」ことが推奨されることもありますし、会社では「いいから、言われたとおりにやれ」という命令従属型の上司部下関係が蔓延しています。特に日本ではタテ社会の歴史感がなかなか変わらないため、このような世界観では「言われたとおりにやったら結果が良かった」という体験も多いかもしれません。そのようなことも相まって、ともすれば「ほら、俺の言った通りにやったらよかっただろ」といった言い出し側の勝ちに終わることも珍しくありません。

しかしこれはあくまで可視化できる範囲での結果論で、本来はもう少し細かい紐解きが可能です。ここでの「相手の言った通りにしてみたらよかった」というのは、実は「言われたとおりにやってみようと自ら思ってやってみた」という余裕が伴っているものです。つまり相手の言うことに何も考えずに従っているのではなく、「選択」をさせてもらっているのです。「自分が考えていることもあるが、これよりも良さそうなので、相手に提案されたことをやってみよう」という流れです。このような思考過程には、やがて「釈然感」という想いが生じています。

日常生活におけるモノの考え方の過程で、この「釈然感」は大変重要な要素です。なぜなら現実には人間関係がありますから、100%自分の描いたように事が運ぶことはありません。しかし自分の想いに他人のエッセンスが入ることを受け入れて得られる「釈然感」には、勇気や自信というオプションが付いてきます。また他人が入ることで、成果自体も自分が考える以上のものを得られることもあるでしょう。一方で、「100%自分の理想」には天井がありません。仮に見た目思うように進んでも、周囲に我慢や迷惑を強いることにつながり、程なく罪悪感を持たなければならなくなります。よって罪悪感を覚える思春期以後において、100%自分の考えから生まれたものだけで世の中を突き進むことは、巡り巡って本人も釈然感を持てなくなる事態を生み出していくのです。

この人間関係の中で「罪悪感」と反対に位置するのが、上述の「釈然感」です。これが前提にあるときには、「うまくいかなくとも、結果は自分が受け止める」という胸中に導きます。そしてこの「釈然感」は、心に余裕がある中で生み出されるもので、かつ「自分で自分の人生を選んだ」という感覚を積み重ねているときのみ、持ち続けることができます。

これらと反対に位置するのが、「正解」や「常識」、あるいは「当たり前」といった言葉です。これらの言葉は、人間に選択する暇を与えず、疑問を持つことも許されません。このような言葉は、実は「強いられた人間関係」の中で作られた言葉です。強いられているときは、余裕がなく、いわば無理矢理になります。しかし人間が全体として余裕がないとき、この無理矢理さえも感じることも出来ない中で、これらの言葉は生き残って来たのかもしれません。

ちなみにこのような「当たり前」でコトを終わらせようとすることが、世の中には沢山はびこっているように思えます。ひとつ代表的なところで、幕末の戊辰戦争で敗れた会津藩の代表的な格言の中に、「ならぬことはならぬ」というのがあります。これは一見言葉だけ見れば素晴らしいようですが、実際に社会の中で応用しようとすれば、初めから「改めて人にモノを考えさせることは許さない」にもつながりかねず、大きなこじれにもつながりかねません。このように一見強くわかりやすい言葉には、往々にして拙さがあります。このようなことをわきまえずに言葉通りに受け止めされられると、人は知らず知らずのうちに余裕を失っていき、ついにはムキに生きることしかできなくなります。

この格言に限ったことではありませんが、世の中には一見は素晴らしいように見えて、実際には非常に理不尽で問答無用な言い回しがあふれています。そしてこのような言葉は、得てして「無根拠・断定系」です。ふとした時に突然私たちの前に現れてくる、このような人生に落とし込めない言葉に巻き込まれないように、常に「遊び」をもったこころの運転を心がけたいものです。

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