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謝らない人

[2013.05.21]

日本には人間関係に関わる言葉として、見栄・意地・面子など「恥の文化」に由来する様々な表現があります。英語にもある程度ありますが、他にも体裁・格好などいわゆる意固地をあらわすような言葉が、日本語にはこのようにたくさん存在していることに驚かされます。

そういえば「武士は食わねど高楊枝」という言葉もありました。武士の見栄っ張りと武士道が合わさったような言葉なのでしょうが、裏を返せば「謝罪」に関して諸外国よりも特別な意味を持っているように思えます。

というのも、これらは目の前の人や周囲に対して、当事者が謝るか謝らないかという選択の時の感情として使われる言葉です。いずれもこの瞬間のことなのに、私が挙げただけでもこれだけの言葉があるわけです。日本人は、おそらくよほどに「謝る」ということに対して敏感であったのではないかと思います。

いまでも周りには「絶対に謝らない人」というのがいます。しかしこの人のこころは謝らないその態度とは裏腹に、実は非常に怖さを持っていると思われます。つまり「謝ったら相手の支配下に置かれる」、「謝ったらずっとその人の言うことをきかなければならない」。そして最も大きな怖さは「謝ったら、以後相手にされない」という怖さでしょう。

もちろん、これらの怖さは「勘違い」以外の何ものでもありません。しかし人は環境で会得していくもの、そして大きなトラウマとなった感情や思考にはその後もアレルギー反応が伴ってきます。「謝ったら許される」という体験を積み重ねている人は、謝罪に対する抵抗はありません。しかし子供の頃から謝罪した後に愛情を感じる体験が少ない人は、謝罪の効用を想像することは出来にくいでしょう。どうしても、それこそ「見栄」や「意地」を切ってしまいます。本人はそんなつもりもないのに…です。

 「なぜこの人はそんなに意地を張り続けるのだろう」と思うことがあったならば、ふとその人の人間関係を想像してみましょう。そうしていくうちに段々と見えてくると思います。「あぁ、この人は怖がっているのだ」…と。

このことは、「権力強迫の人」や「偉ぶりたい人」にも応用出来ます。

「こだわり」は、時として「怖さ」の裏返しなのです。

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